朗読 私と北海道
おもいで旅行


東京オリンピックのあった、昭和39年7月の末。当時私たち一家3人、父、母、私の3人はある繊維会社の社宅住まいをしていました。 この時期は、高度経済成長でありましたが、まだ、世情は質素でした。 カレーライスやすき焼きはそれこそ年に数えるほどでした。自動車もそんなに走ってなく、自転車通勤や電車通勤が多かったようです。
さて、本題にはいります。その7月末に北海道の砂川から父方の伯父が亡くなったとの電報がきた。とるもとりあえず北海道へ行くことになった。急いで武生駅へ駆けつけた。しかし、慌てたので私の長袖のシャツとズボンを忘れてきた。無理もない。福井は夏真っ盛りだから。現地は福井とは気候が違うことは思いつかない。これが後で大騒動になる。父、母、私の三人は急いで夜行の急行 「日本海」に乗る。中はお客さんで一杯。寝る場所がない。列車内は扇風機のみ、クーラーはこの時代贅沢。アー先が思いやられる。
寝なければ、体がもたないので、家族3人は床で新聞紙を敷いて寝ることになった。トイレの中で寝ているオジサンもいたように記憶する。とにかく眠れない。羊が一匹、二匹。ダメだ。この時期JRでなく、日本国有鉄道と言われた時期だった。車掌さんが「どうも申し訳ございません」と車内を廻っていた。なんとか2時間ほど眠ることができた。
朝、目覚めると新潟県の直江津に停車していた。現在の上越市と思いますが、早速、父が朝食として、駅弁を買ってきてくれた。板垣退助の百円札を握り締めて買ってきた。しかし、父は大の酒好きで弁当を買い、コップ酒を飲むため、列車には出発ギリギリだった。これは、肝を冷やし、父を母と私とで怒ったものだった。父はすでに西の国へ行ったが、晩年まで酒と友達だった。私は今まで酒は苦手ですが。 この時、新潟県は、地震の被害で復旧途中でした。当時、大変な状況でした。車窓から田圃の稲が倒れている風景が目に飛び込んできました。まだ、新潟地震からそんなに月日が経ってない感じでした。被害は甚大だったと後で聞きました。その影響か、日本海沿岸を走らず、列車は庄内平野を迂回し、確か山形県の小国駅を覚えています。
後のことですが、二学期にこの旅行の作文を書き、校内表彰を受けました。受けたのは私と神戸旅行のK君でした。その時分は北海道や神戸に行くことは夢、憧れで、せめて福井の百貨店へ行くのが贅沢な時代でした。
列車は山形から酒田駅へそこから正規のルートを走ったと記憶してます。酒田で買った駅弁はおいしかったと今でも母と語っています。おかずは忘れました。

青森には、翌深夜に着いたと思います。その時は夏服なので、寒くて仕方ありませんでした。母に「なぜ、長袖、長ズボンを持ってこなかった」とひどく私は怒りました。母もこの事情、急いでいたので「悪かった」と言い、すぐ買ってきてくれました。とにかく寒かったことを覚えています。青函連絡船に乗船。中は、かづき商いの人が多かったようです。私たちは船底に近い大部屋に乗り、残り時間を眠ることになりました。


早朝6時。父の「函館の街が見えるぞ」の声に目が覚め。甲板に上がると青い雲ひとつ無い晴れた空に白い函館の町並みが眼前に迫ってきた。私の心は真っ白だった。 いよいよ、北海道だ。函館から国鉄の急行に乗り込んだ。さすが、北海道は広い。民家の屋根はカラフルな色で描かれていました。ピンク。緑。赤。青などあったと思います。
とにかく、列車の窓から見える景色はただ「広いな」の一言。水田は見当たらず、草原ばかりでした。今もその時の家族3人の感激の姿ははっきり浮かんできます。季節は夏というのに秋の様相でした。この時は、電車が停まると、よく駅そばを食べたものでした。多くは中に卵を入れたものを注文しました。熱かったこと。熱かったこと。
北海道で熊を思い出しますが、今年、平成16年は各地で熊の出没が多いですね。気候の影響でしょうか。ともかく、北海道の原野は心を大きくしてくれました。旅は続きます。
札幌で列車を乗り換えて一路、目的地の砂川へ向かいました。その列車内でトラブル発生。私たちが座席で寝ていると、あるお客さんが「この座席は私たちの指定席だ。席を立ってください。」と激しく抗議してきました。父は指定券を見せ、相手の人も指定券を見せ合いましたが、どうやら相手の勘違い。列車の車両の番号違いだったのです。いきなり、大声を出してきたのでむかついた次第でした。「落ち着いてくださいよ」と叫びたくなりました。父は冷静で「もう落着」と一声で事件は終了。
砂川の町に到着。早速、父が宿を探すことに。しかし、どこで私たちの情報をキャッチしたのか、故人である伯父がお世話になっていたある寺の方々が駅の近くで待っていてくれました。到着時刻も知らせてないのに。町のコミュニティーが発達しているのでしょう。早速、寺用意のタクシーに乗り込みました。お寺に到着。お寺の敷地。建物の中は広かった。早速父は、寺の住職と7日法要の打合せをすることに。私と母は部屋に招かれました。しかし、この寺の猫は大きかったことを記憶してます。この寺の住職には3人の子供がおりました。上が中学一年の男の子。真ん中が私と同級小学4年の女の子。下が小学2年の女の子の構成でした。翌日からの6日間、この寺でお世話になることになりましたが、遊びや夏休みの宿題にはおおいにハッスルできました。自然は豊かだし。3人の他、地元の友とも交流できたのです。翌日、朝は福井よりは緯度が高いせいか午前4時前には外は明るくなった。私達が訪れた7月末は北海道の学校は夏休みだったかどうか定かでないが、北海道は夏休みが短く、冬休みが長いと聞いた記憶があります。この時は休みに入った直後と思います。最初の日の朝、中学生の兄さんに「ソフトボールの試合がしたいが、君に助っ人として出てくれ、短いイニングでいいから」と言われ、渋々グランドへ行った。
メンバーは小中学生の混成だった。グローブは皆、仲間で貸し合いをしていたようです。当時はそうでした。
別に私がいなくてもメンバーがいたが、気楽な試合という感じでした。私は一番球の飛んでこないライトを希望。そのとおりになりました。一回表。球は飛んでこず。安心。打順は8番だったので、その裏は打順が来ないと思ったが、わがチームはヒットと相手のエラーで打順が来てしまった。打席に入ると緊張そのもの。フルカウントから思いっきりバットを振る。快音。しかし、センターライナー。残念。妹さんたちが応援の声。未知の土地でアウェーでめまいがするくらい体が自分でないくらいだった。守備は散々だった。フライは外し、バンザイエラー。ゴロはトンネル。しかし、不思議と敵味方から野次られなかった。見事フライを捕った時は拍手ものでした。この時、試合に出ている男子はランニングシャツ一枚でした。もち、Tシャツなどあるわけないし売ってないし、この時は快晴で日中はそれでも寒くありませんでした。そうそう、この時は水不足で給水車が市内を回っていました。
最終回の先頭バッターとして打順が回る。相手のピッチャーが中1なので、球の速いこと速いこと。「手加減してよ」と言っても聞く耳は持っていませんでした。勝負に手加減は無しか。結局3球目に手を出してキャッチャーフライ。だめもとですよね。速い球なので、当たっただけでも儲けもの。試合は両チームドローの引き分け。
終わったあと審判をしてくださった2人の男の方にうどんをごちそうになりました。熱いうどんで「ふうふう」息をしながら食べた思い出があります。
お寺の女の子で、上の子、私と同級の子には滞在中に砂川の町をよく案内してもらいました。砂川は炭鉱で有名でしたね。野球の翌朝、朝6時頃から砂川駅から隣の駅まで歩いて散歩しましたね。福井のことをよく尋ねてきました。「福井って、夏、暑いんだよ」て言うと、「どれくらい」と興味津々でしたね。
さらに三日目の朝には彼女は大きなおにぎりを持ってきました。朝早くに起きておにぎりを5個握ってきたようです。ずいぶん大きかったなあ。炭鉱の会社の広場で食べました。「大きいな。これは腹がふくれるよ」「慌てて食べると、おなかこわすよ」「大丈夫」こんな調子でした。今の私ならとてもこの時のおにぎり4個は無理ですね。私は地理の教科が好きだったので、町巡りは時間が経つのも忘れて一緒に見て回りましたね。4日目の朝。父が戦争中の話をすると言うので、お寺の子達と私は話を聞くことになりました。父は昭和19年の頃、太平洋戦争中、名古屋の工場に勤めておりました。爆撃の最中、工場で機械の部品を作っていたこともあり、命がけだったそうです。仲間の何人かは犠牲になったとのことです。しかし、仲間や上司との温かい交流もあったそうです。休みは殆ど無しで文字どうり月月火水木金金っだったそうですね。父は一生懸命仕事をしたみたいです。戦争は駄目であることは当然ですが、この戦争後、日本は国民の汗と努力で立派に奇跡の成長をしたことは誇りに思います。しかし、この時、私達4人は熱心に聞きましたね。戦争の悲劇は歴史の事実として後世に伝えていくのも重要ですね。母などは、当時小学生だったので、校庭において竹やりで戦闘訓練をしたと後で聞きました。校庭は畑にもなっていたとも聞きました。
5日目にお寺の住職が私の夏休みの宿題を見てくれました。覚えているのは理科の宿題で虫の触覚を詳しく教えてくださったのが印象に残っています。しかし、今思うと、もっと学校で勉強しとけばよかったと後悔しています。後悔しても駄目か。前を見なければ。元へ。しかし、住職はなんでも物知りでしたね。おかげで、夏休みの宿題はおお助かり、お寺の子の協力もあったので作文もリアルに書けたようです。そうそう、二学期のわが小学校の体育祭の踊りの稽古も子供たちとやりましたね。さて、今思うと私たちは、私が高校生になったら砂川でまた会おうと約束したのですが、結局行けませんでした。それから新婚旅行と会社の慰安会で北海道へ行きましたが、砂川までは行くことはありませんでした。でも、行けるわけないよね。妻と社長に怒られちゃうから。冗談はさておき、最後の6日目はお寺でお昼に冷麦を作って食べることとなりました。母が自腹をきって近くのお店やさんで買ってきました。お寺の姉妹と3人ででした。この時は日中は暑い感じでしたので皆、結構食べましたね。寒暖計で25℃はあったと記憶してます。水不足の年だったし。母が作ってくれたのですが、よく皆おとなしく食べました。そう、明日いよいよ帰るので私はなにか感傷に浸っていましたね。考え込んで。しばらく時間が止まれと。この時代、今と違って夏、子供たちはおおいに外で遊び回っていました。だって、テレビゲームもパソコンも無いし、塾も無いし、第一、この時代、家で閉じこもっていると誰かが「遊ぼう」と呼びにきたものです。遊びが勉強で、対人関係のトレーニングができたものでした。
話は飛んで、北海道でおいしい食べ物といえば、魚介類。特に鮭類がおいしかったですね。後年、最愛の妻との新婚旅行や会社の慰安旅行でも海の幸、山の幸を腹一杯食べましたね。ビールもたくさん飲んだしね。思えば、最近20年近く北海道には、とんと縁がないが、今度は釧路湿原へ行きたいですね。食後、子供たちとはトランプの数合わせをしました。お寺の兄さんは「砂川へいつでも来いよ。また、いろいろ遊ぼう」と言ってくれました。今会ったら、店をはしごで飲み合うだろうな。私は実は酒はほとんど飲めません。下戸です。奈良漬を食べても顔が赤くなるくらいです。話を元に。明日は出発ということで父母は伯父の荷物の整理で大忙しでした。今思えば、伯父が使っていた百科事典を持って帰るべきだったと悔やまれます。勉強できたのに。あっても勉強しないか。あとオルガンも有りましたが、荷物になるのと家族に興味が無いことで寺に百科事典同様寄付しました。持って帰ったのはレコードのプレィヤーでした。父は既に他界してますが、あまり欲は無く「兄貴の遺骨さえ持って帰れば充分」と言ってました。良い親父でした。親孝行したい時に親はなしといいますが、そのとおりですね。後で述べますが、父は帰りの汽車の中で遺骨を大事に横に置いていました。遠く離れていても兄弟ですね。私は伯父の顔は一度も見ていませんのでイマイチ実感は湧きませんが写真を見ると父よりルックスは抜群ですね。聞くところによると伯父はよくモテタそうです。
翌朝、私はあまり眠れずに起床。いよいよ帰りの時がきた。許されるなら、後20日ほど居たかったですね。空気はおいしいし。海の幸や野菜も豊富。しかし、わが家があるから帰らなければなりません。
私達家族は朝10時頃に、砂川駅で帰りの列車を待っていました。時間まで、お寺の住職家族と近所の仲良くなった子供達とも名残りを惜しみ、また会うことを約束してました。指きりげんまんですね。お互い純粋でした。この時、お寺の近所のある子からソフトボールの球を貰ったのを覚えています。私は新しい大学ノートに自分のサインを書いたのをプレゼントした。サインだけ余分だったと反省してます。話はまた脱線しますが、今、我が家は母、妻、23歳の長女の4人家族です。周りが女性ばかりだと鍛えられますよ。尚、職場の同僚も女性陣が多いのでこれも鍛えられます。家族や職場の女性陣にはいつも世話をかけ、感謝してます。お世辞でないですよ。女性を大切に。女性の知恵には感服します。もちろん男性にも教えられます。
話を戻します。午前11時、砂川駅から列車に乗り、列車は動く。地元の人たちは私たちから遠く点になるまで手を振ってくれた。「貴重な一週間ありがとう」と心から思った。私たちは一路、札幌へと向かった。後は観光でした。札幌では時計台を見たが、イメージよりは小さい感じでした。いぶし銀のような頑固な札幌の親父さんのような印象でした。歴史のひとこまですね。その日の夕食はカレーライスを食べました。この時代、カレーは贅沢でしたからね。さすが、北海道。ジャガイモは特に美味しかったですね。この時の札幌の印象は、道路がかなり広かったことを覚えています。異国情緒もありました。そうそう、街路樹のポプラ並木もグッドでした。夏でしたが、本当に涼しかったですね。福井に戻った時は汗ダクダクでした。また、家に二匹の金魚を残してきましたが、無事でした。餌も与えておらず、水の調整もしてなかったのですが、生命の強さですかね。
帰りの青函連絡船で父のカメラの調子が不調になり、半分の北海道でのフィルムが駄目になっていました。しかし、まだ半分あったから良しでした。乗っていた船は後で聞いた話ですが、私たちの乗船で御役御免のようだったとのことです。今は青函トンネルで一気に鉄道で行けますが、昭和39年、1964年当時、北海道と青森へ渡るこの連絡船は重要なお客さんの足でした。目で見ると本州と北海道は近く見えるのですが、そうはいきません。 それだけの時間はかかります。さらに、気候が本州と北海道ではまるで違いますね。住んでいる動物も全く違います。今、熊が話題になっていますが、北海道はヒグマ、本州はツキノワグマですね。
帰りのJRの電車の中で父は伯父の遺骨を車窓に置いて座っていました。秋田辺りで列車から落としてしまうのですが、駅員の方が尽力されて探して持ってきてくれたのには感謝しましたね。しかし、父はこれに懲りずにまた、車窓に置きました。私は一人っ子なのでよく分かりませんが、やはり離れていても、いくつになっても兄弟ですかね。帰りの列車の旅はなにか気が抜けた感じでした。親子3人で雑談してましたね。母は明るい性格だから助かります。今もですね。気分も転換しやすいですね。そうそう、話は前後しますが、北海道の地名や駅名は特徴がありましたね。確か「のっぽろ」という駅名がありましたし、「おしゃまんべ」という駅名も記憶しています。さて、話を元へ。我が家に11日ぶりに帰りました。鯖江は暑かったですね。ものすごく。予想どおり。これが現実ですか。今現在、地球温暖化が言われてますが、福井も雪は最近少なくなりましたね。北海道の雪は本州の雪のように重く湿った雪になったと聞きますが、如何でしょうか。話は飛びますが、この時期ですか、祖母の家へよく遊びに行きました。夕方まで従兄弟や近所の子供たちやオジサン連中とよく病院のグランドでキャッチボールををしましたね。夕方まで泥んこ。祖母が呼びにきて、すき焼きを食べる。思い出しますね。最近の世の中は随分、便利になり、経済も豊かになりました。でも、温かみのある豊かさでないですね。どうですかね。その温かい父は平成元年に60歳で遠い旅路へ、人に世話焼きの優しい母も平成31年の1月に86歳で父の傍らへ行きました。

つづく

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